聖書の一番最初の言葉。
それは「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1章1節)である。
ちなみに、これは新改訳聖書2017の翻訳。
直前の版、新改訳聖書第3版では「はじめに神が天と地を創造した」となっている。
違いは「創造された」か「創造した」か。
ここでの「~された」か「~した」かの違いは、丁寧語かそうでないかの違いでしかない。
しかし、受ける印象はかなり違う。
個人的には第3版の「創造した」のほうが好きだ。
行為者である神の絶対的主権や力を感じ取れる。
聖書の基礎となる世界観
それはともかく、聖書は冒頭において、問答無用に聖書の基礎となる世界観を私たちに提示する。
すなわち、世界に満ちるすべてのものは、神によって造られたということである。
後に聖書は、この神が全能の神であり、唯一の神であり、愛の神であることを次第に明らかにしていくが、聖書がまず示すのは「創造主としての神」である。
この世界は創造主によって造られたという考え方を「創造論」という。
そして、世界を見渡せば、この創造論を信じている人は少なくない。
この事実に、きっと多くの日本人は驚くことだろう。
というのも、私たち日本人は子どもの頃から「進化論」を教えられているからだ。
それが、あたかもすでに証明された真理かのように。
だから、日本で「私は創造論を信じている」と言うと、白い目で見られたり、好奇の目で見られたりする。
しかし、進化論はあくまでも仮説であり、科学的に証明された学説ではないことを、多くの人は知らない。
だから、多くの矛盾をはらんでいる学説であることも、知られていない。
必然か、偶然か
ただ、そのような学説としての問題よりも、私が問題視しているのが、進化論の背後にある世界観である。
それは、この世界は「偶然に存在する」という考え方である。
偶然に存在するものには、存在する意味や目的はない。
つまり、進化論の根本にある世界観では、あなたの人生には意味も目的もない。
ということは、進化論が提示する世界観の中で人生の意味や目的を問うことはナンセンスである。
だから、もし自分の生きる意味や目的を探しているとするなら、その人は「進化論」が提示する世界ではなく、「創造論」が提示する世界に生きる必要がある。
なぜなら、創造主なる神は、意味と目的をもってこの世界を創造されたからである。
創造主なる神を信じるか、信じないか。
それは、この世界が偶然か必然か。
どちらを選び取るかという問いである。
なので、もし、人生の意味や目的を求めることに意義を見出したいと願う方には「創造論」についても学ぶことをおすすめする。
まったく興味が持てない方であったとしても、少なくとも「創造論」が信仰であるように、「進化論」もまた信仰であることを覚えていただければ幸いである。
ちなみに、クリスチャンの中には創造論と進化論のハイブリット的な世界観を提示する人たちもおられるが、それに関してはまた別の機会に触れたい。