Devotion Log

日々聖書を読む中で学んだこと、考えたこと、また祈り

聖徒の死は主の目に惜しい?

主の聖徒たちの死は 主の目に尊い。

詩篇116篇15節

学び

新改訳聖書では「主の目に尊い」と訳されている箇所がフランシスコ会聖書研究所訳では「主の目には惜しむべきもの」と訳されている。その訳に含まれるニュアンスを前面に出して私訳するなら「忠実な聖徒の死は主の目には残念なことだ」ということになる。なぜこのような訳になるかと言うと原語が「尊い」とも「惜しい」とも訳すこともできる語彙で「旧約時代、死んでしまった者は神と交わることができないと考えられていた」という当時の思想を鑑み「惜しい」という訳を取ったらしい。これを踏まえて私訳をさらに具体的なものとするならば「神は忠実な聖徒が死ぬことによってご自分との親交が断たれるのを悲しまれる」となるだろう。しかし、旧約聖書は新約聖書の光に照らして読むという立場にあるものとしては「聖徒の死は、神とのさらなる深い交わりに入れられることであるので、神の目には尊くまた喜ばしいことである」という意味として捉えるほうがしっくりは来る。実際、日本語訳聖書のほとんどはそのような意味で訳出しているようである。もし、フランシスコ会訳のほうが詩篇116篇の作者の当時の意を正確にくみ取っていたとしても、大祭司カヤパのように本人が発した言葉に本人の意とは異なる神の意が含まれていることもある(ヨハネ11:49-52)。ちなみに聖書協会共同訳では「主の目に重い」と「尊い」と「惜しい」のどちらにでもとれるような訳になっている。これはあえてのことのだろうか?

祈り

イエス様、あなたは今もそして永遠に私とともにいてくださる方です。私は死に至るまであなたのしもべとして忠実に仕えていきます。あなたのみこころのうちを歩んでまいります。どうか、あなたご自身が私の歩みを確かなものとしてください。絶望ではなく希望を抱きつつ自らの「死」に向き合っていくことができますように。私たちはその時、あなたを真の意味で知ることになるからです。あなたと顔を顔を合わせて親しく交わることができるからです。その日を心待ちにしながら、私は今日という日も喜び歌いつつ過ごします。